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日本海を知る

にぎわい探検隊 北前船の巻

其の九 隠岐ノ島(島根県隠岐の島町・知父村)

島前 知夫里島の子ダヌキ

島前 知夫里島の子ダヌキ

 隠岐は日本海に浮かぶ島ですが、かつての北前船の時代には重要な中継地点として栄えていました。島前(ドウゼン)と島後(ドウゴ)にわかれており、島前は三島(知夫里島、中ノ島、西ノ島)から成り立っており、島後は隠岐では最大の島です。



隠岐ポートプラザ内の隠岐ノ島の模型 左が島前 右が島後
島前の一番手前が知夫里島(牛がいます)

 隠岐ノ島は北前船が大型化するにしたがって重要なポイントとなってきました。小型の船では陸地に沿うようにしか進めなかった船も、北海道に行けるような大きくて丈夫な船が作られてくるようになると、下関→隠岐→能登と一足飛びの航海が可能になり、隠岐は大事な中継基地となったのでした。また、北海道からの帰りの船が、日本海が荒れるころまでに瀬戸内海に入れない時は、無理をせず隠岐で冬を越したそうです。これを「囲い船」と呼びました。

隠岐郷土館(旧島根県隠岐支社庁舎等)

隠岐郷土館(旧島根県隠岐支社庁舎等)

舟箪笥(フナダンス)、前面に装飾がある(海に落ちても装飾のある前面が下になることで、水が入らず沈まない)

舟箪笥(フナダンス)、前面に装飾がある
(海に落ちても装飾のある前面が下になることで、
水が入らず沈まない)

 隠岐ノ島でも一番栄えた港は島後の西郷港になります。西郷港は現在も本州からのフェリーが着く港です。西郷港は入り江が二つに分かれており、東に向かう船は西の入り江で、西に向かう船は東の入り江で風待ちをしたようです。その方が出航しやすかったようです。

隠岐ポートプラザの北前船模型

隠岐ポートプラザの北前船模型

隠岐郷土館の北前船模型

隠岐郷土館の北前船模型

 西郷港の目の前にある隠岐ポートプラザ、旧五箇村にある隠岐郷土館には、北前船の模型があります。

 次は知夫里島です。知夫里島も北前船の時代には風待ち港として栄えたとのことです。現在の(知夫里島=)知夫村は人口766人、牛500頭、馬50頭、タヌキ2000匹ということで、人より牛や馬のほうが多いような島です。子ダヌキは何匹も見かけました。知夫里島には隠岐では唯一タヌキが生息しています。現在観光の目玉とするために餌付け中だそうです。

(牛や馬は道の真ん中に立ってたりするので)牛や馬がすぐそばで見れらます
(近すぎて眼があったりすると、こっちがビビリます〜)

 そんな知夫村の小島、島津島には民謡「どっさり節」の「お松の碑」が建っています。「どっさり」とは隠岐の方言の「どっさりくっさり(どうにかこうにか)」のことだそうです。

おまつの碑

おまつの碑

渡津(ワタス)神社

渡津(ワタス)神社

 昔、知夫里島のお松という若い娘と新潟から来た北前船の若い船乗りが恋に落ちたのですが、また隠岐に来ると約束して旅立った若い船乗りは二度と戻っては来ませんでした。お松は待っている間、その若い船乗りが唄っていた新潟の追分節を口ずさんでいました。しかし、それは男が唄っていたものとはずいぶん違ったものになっていたのですが「どっさりくっさり似ています」(どうにかこうにか似ています)ということで、いつしか人の心に残り、今も「どっさり節」として歌い継がれているようです。石碑は日本海が見える場所に建っており、今もお松がその若い船乗りを待っているかのようでした。またこの島津島には渡津(ワタス)神社があり、陸路や海路を守護する道触神(ちぶりのかみ、知夫里島の地名の由来でもある)を奉って航海の安全を祈願したとのことです。

知夫里島の赤壁

知夫里島の赤壁

知夫里島の赤ハゲ山からの眺め

知夫里島の赤ハゲ山からの眺め

 知夫里島は道路の糞(馬糞、牛糞)さえ気にしなければ、とてもすてきなところでした。自然いっぱい、動物いっぱい、景色は360°の絶景、料理は美味しく最高でした。ちなみに宿は知夫里村の「橋根旅館」がお薦めです。ぜひ隠岐ノ島に行ってみてください。

知夫里島の川井のお地蔵さんの名水 タヌキの徳利から水が出ます

知夫里島の川井のお地蔵さんの名水
タヌキの徳利から水が出ます

となりの西ノ島ではスルメが回ってました(北前船の時代からスルメは隠岐の特産です)

となりの西ノ島ではスルメが回ってました
(北前船の時代からスルメは隠岐の特産です)

次回は舞鶴港です。

2005.11.1 (by 隊長)