HOME > 日本海を知る > 北前船 > 其の壱拾四 浜田港
浜田港です。
浜田港は重要港湾として、また島根県内唯一の国際貿易港として平成13年4月に韓国釜山港との定期国際コンテナ航路が開設され、貿易相手国もアジア地域をはじめ米国、欧州など年々着実に増加しています。コンテナ取扱量も順調に伸びており、日本海西部の物流拠点としてさらなる発展が期待されています。
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国道近くの高台より、町並みの向こうに浜田港
さて、探検隊の報告です。江戸時代は皆さんご存じのとおり鎖国をしており、海外との貿易は幕府直轄の長崎港だけで、鎖国を破り海外との貿易を行うことは幕府への反逆行為として大罪でした。
しかし、鎖国は幕府が海外貿易の利益を独占するために行ったという説もあり、海外貿易は非常に利益が大きく、さらに江戸後期はどの藩も財政が窮乏しており、危険を冒してでもその密貿易に手を付けた藩や人物は結構いたようです。
浜田港は北前船の交易も盛んでしたが、密貿易も行っていた時期がありました。
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松浦湾の海に向かって建つ「会津屋八右衛門の碑」
当時の浜田藩(六万石)の財政難を見かねた浜田藩の商人「会津屋八右衛門」は密かに朝鮮のウルルン島(当時は竹島と呼んでいました)に船を出し交易を行いました。天保元年(1830年)から数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したとのことです。しかしそれも幕府の隠密だった間宮林蔵に摘発され発覚し、天保7年(1836年)に八右衛門は死罪となり、家老、年寄などの重職は切腹、藩主の松平家も福島に国替えとなりました。
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「海の男」八右衛門
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八右衛門の旧居
幕府に対しては反逆者ですが、地元にとっては藩の窮乏を救った海の男として称され、彼の百年忌を記念し昭和十年(1935年)に碑を建てたとのことです。
町中で八右衛門の旧居を発見しました。今はお餅屋さんになっていました。(町中にはなぜか餅屋がたくさんありました。お国柄でしょうか?)
その浜田藩の浜田城も、第二次長州戦争の際大村益次郎によって落城させられたそうです。現在は護国神社になっています。
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浜田城跡
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護国神社になっています
男の気概と何かもの悲しさを感じさせる浜田港でした。(今回は真面目に終わりです)
2006.1.15 (by 隊長)