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日本海を知る

にぎわい探検隊 北前船の巻

其の壱拾五 岩瀬港(富山県富山市)

「北前船回船問屋」森家(左)と馬場家(右)、お隣同士です。

 今回は岩瀬港です。現在の特定重要港湾の伏木富山港 富山地区にあたります。  岩瀬港は岐阜県の高山から富山市内を通り海に注ぎ込む神通川(じんづうがわ)の河口にありました。神通川の河口は、昔はもう少し西側の「四方(よかた)」という場所(現在は漁港があります)でしたが、万治元年(1658年)の洪水で現在の東岩瀬に河口を移しています。江戸時代には加賀藩の御用米の積出港として栄え、北前船の時代には北海道との交易でさらに発展しました。明治後期には電信と鉄道の普及により北前船の時代は終わりを告げましたが、岩瀬港は富山市の工業化とともに重要性は増しており、工業化と船舶の大型化に対応するため、神通川の改修工事にあわせた富岩運河整備(昭和9年・1934年に完成)、神通川との分離(大正15年・1925年に切替完了)による河口港としての宿命である埋没からの脱却を図り、3千トン級の船が利用できる近代港湾に変貌したのでした。昭和18年には富山港と名前を変え、昭和61年には伏木港、新湊港と合併し、現在の特定重要港湾「伏木富山港」となり現在に至っています。

富山港展望台

富山港展望台

岩瀬の町並みが見わたせます

岩瀬の町並みが見わたせます

 まずは富山港展望台から。琴平神社の常夜灯をモデルに建てられています。(高さ24m)展望台からは富山港や岩瀬の町並みがよく見えますし、天気の良い日は立山連峰も一望できます。(残念ながらこの日は見えませんでした・・・)

 次は馬場家へ。馬場家は岩瀬港が北前船でにぎわっていた時代(江戸後期〜明治後期)には「北陸五大船主」の一人とされた巨大回船問屋でした。残念ながら見学は出来ませんが、正面玄関には今も「馬場商事株式会社」の看板がかかっています。この会社は建物の管理のみを行う会社とのことで、馬場家にはもう住んでいる人はいないのですが、毎朝家の管理をしている人が玄関を開けるそうです。玄関だけでも回船問屋だった風情が伝わります。

 その馬場家正面には小さな公園があり北前船(バイ船)の銅像があります。なお、富山では北前船のことを「バイ船」と呼びます。行きと帰りで2倍儲かるからだとか。

馬場家の玄関の看板たち

馬場家の玄関の看板たち

北前船(バイ船)の銅像(神通丸、1/12)

北前船(バイ船)の銅像(神通丸、1/12)

 また、馬場家の「馬場はる」(明治19年〜昭和46年)様は、33才の時に夫・道久を亡くされ、それ以降馬場家を守りつつ、旧制高等学校(現富山大学教養部・文理学部)の創設のために100万円を寄付し、その後も総額160万円の寄付を続けたそうです。当時の富山県予算の1/7に相当する額だとのことです。(んー、スゴイです・・・)



入り口には「北前船回船問屋 森家」の看板」

 お隣にある森家も回船問屋です。国指定の重要文化財で明治11年(1878年)に建てられています。こちらは中を見学することができ、地元町内の方が詳しく説明して下さいます。(その節はどうもありがとうございました)

 まず玄関から入ると天井まで吹き抜けている部屋(「オイ」の間、と呼ぶそうです)になります。天井には明かり取りの窓まであり、昔の造りの家にしては非常に明るいです。そして土間がわりに幅一間、長さがなんと8m以上もある一枚岩!が敷いてあります。なんでも小豆島から日通に頼んで運んでもらったとか。(豊臣秀吉と張り合った?ようです・・・明治初期にどうやって運んだのやら)

 その土間を過ぎるとお客さん用のトイレがありますが、これまたなんと戸板や壁板は屋久杉(当然、屋久島から運んだ)で出来ていて、トイレを使用すると長生きできるとのこと。当然利用させていただきました。んー、お金持ちの金の使い方はスゴイけど、なんといいましょうか・・・しかしお金をかけた所はお客さんの目に付く場所と、従業員の部屋だけで、自分の部屋は旦那様が五畳間で、奥様が三畳間だったそうです。(しかも奥様の部屋は台所の横です)お金の使い方が違いますねぇ。(何でもこの家を建てるのに3年もかかったそうですが、材料を集めに2年かかっているそうです)



「オイ」の間とその天井

土間ではなく小豆島産の一枚岩

土間ではなく小豆島産の一枚岩

屋久杉の戸板のトイレ

屋久杉の戸板のトイレ

 家族はもうこの家には住んではいません。東京の一等地にお屋敷があるそうです。今は市が払い受けて町内で管理しています。
(森家では町内の方が「語り部」として案内してくれます)

「バイ船」神通丸の模型(外には銅像が) ズングリしているのは理由があります

「バイ船」神通丸の模型(外には銅像が)
ズングリしているのは理由があります

各地から集められた庭石、「バイ船」の重しとして運び、名石として売ったそうです

各地から集められた庭石、「バイ船」の重しとして運び、
名石として売ったそうです

蔵の外壁にも飾りがほどこされています

蔵の外壁にも飾りがほどこされています

その蔵のこて絵の龍(虎もあります)

その蔵のこて絵の龍(虎もあります)

番頭さんの立派な部屋(まるで今でも住んでいるようです)

番頭さんの立派な部屋
(まるで今でも住んでいるようです)

釘隠に亀の彫金、桃の彫金もあります(兎→亀→鶴と部屋ごとに続いています)

釘隠に亀の彫金、桃の彫金もあります
(兎→亀→鶴と部屋ごとに続いています)

 ところで、富山県民と沖縄県民は昆布の消費量の一位を争っているくらいの昆布好きです。富山県出身の隊長も子供の頃、おやつは昆布で巻いたかまぼこで、とろろ昆布のおにぎり(海苔より昆布!)・お吸い物を普通に食べていました。(昆布しめの刺身は美味しいですよ)

 富山県は日本一の回船問屋が北海道から昆布を運んでいたから需要が拡大したのだろうと想像つきますが、沖縄はなぜか?といいますと、実は越中富山の薬と大きく関係しています。

 富山の薬は全国的に有名ですが、この原料はなんと中国から輸入していました。鎖国時代になぜ手に入ったかというと、薩摩藩が琉球王朝経由で密輸をしていたのです。

 富山の北前船が、北海道の昆布を薩摩藩へ、そして昆布は琉球を経由して中国へ。沖縄、中国は昆布を薬として消費していました。(昆布のヨードが甲状腺疾患に効いたようです)そして薩摩藩は昆布のかわりに中国から漢方薬の原料を手に入れ、富山へ渡していました。

 富山の回船問屋はその昆布と漢方薬の貿易で莫大な利益を上げ、明治以後も日本経済を動かすほどになり、薩摩藩はその利益を維新の資金源にしました。北前船が(昆布が)日本の歴史を動かしたのでした。なるほどなぁ・・・(自分で感心しています・・・)

富山市のお隣りの滑川市(「なめりかわ市」と読みます)の街中に「こんぶや」がありました。今は化粧品や雑貨を取り扱っているようです。

富山市のお隣りの滑川市(「なめりかわ市」と読みます)の街中に
「こんぶや」がありました。今は化粧品や雑貨を取り扱っているようです。

 他にも、桜の根っこで作った天井板(模様がきれいです)の部屋の話や、富山に銀行を創ったとか、さらには富山県出身者が日本経済を動かしていた、など森家と馬場家にはもっと裏話がたくさんあるのですが、ホントにキリがないので今回はこれまでとします。(私は「語り部」の方にマン・ツー・マンで1時間も聞かせていただきました・・・もっと聞きたかったです、いやマジで)

 実は「にぎわい探検隊 北前船の巻」のバナーの絵(トップページでゆれている北前船の絵です)は、この森家にあった掛け軸から頂戴しています。

 詳しくお知りになりたい方は、是非、岩瀬の町においで下さい。富山駅からは富山港線のご利用をお薦めします。

次は下関港です。

2006.2.1 (by 隊長)