『北前船』とは
北前船とは江戸時代から日本海側を北海道から大阪まで往復していた船で、一般的には、河村瑞賢が寛文十二年(1672年)に庄内地方(山形県)の御城米(天領の年貢米)を大阪経由で江戸まで運んだ「西廻り航路」の船のことを称しています。なお、「西廻り航路」については、加賀藩が寛永16年(1639年)に大阪まで蔵米を運んでおり、これが「西廻り航路」の始まりといわれています。
北前船回船問屋「森家」に
展示してあった
「北前船」の掛け軸より(富山市岩瀬)
北前船が活躍し出すのは18世紀後半ごろから。北前船が運んだものは米だけでなく、酒田からは紅花、北海道からは昆布やニシン、瀬戸内の塩や鳥取・島根の鉄、船の重し代わりに石(ただの丸い石や狛犬なども)等々、またハイヤ節などの唄や文化、そして富と名声も。・・・ありとあらゆるものを運んだようです。一代で富を築き、そして没落した者もいます。
「北前船」は電信や大型の汽船、鉄道の進出で明治末期には衰退してしまいましたが、全国各地に当時の繁栄を偲ばせる物が今も残っています。
『日和山(ひよりやま)』とは
日和山とは、港の近くにある小高い場所で、そこから天気を予測したり、船を見つけたりしました。日和見る(ひよりみる)とは、有利な方に付こうとしてはっきりした態度を示さないことを言いますが、お天気を見ることでもあります。(今日のご機嫌はいかがかな?晴れか曇りかまさか雷!?ってな具合です。)
当時、海の天候を予測することは、つまりは命に関わることでした。いくら立派で大きな船で船頭が優秀でも、台風が来ている時に海に出ては助かりません。船が積荷ごと沈んでしまい大豪商が一夜にして全財産を無くしてしまうことは、よくあったことのようです。
大阪の天保山公園の壁画より、
本朝名所「大阪天保山」
(初代 歌川広重 画)
全国津々浦々には必ずと言っていいほど日和山があり方角石が据えられ、この場所で風の強さや向きなど(判断材料はもっとあるでしょうが)を見て出帆のタイミングを計っていたのです。
また、高い場所ですから船からも見つけやすいため、灯台(高灯籠・常火灯)が据えられていたりもしました。山が無いところでは、山を作ったり(大阪・天保山など)、高いやぐらを建てる(新潟港)ところもありました。
日和見(ひよりみ)が上手だったら、もっと上手に世の中を渡れたのになぁー、とたまーに思ったりします。
にぎわい探検隊「北前船の巻」の連載にあたって
「日本海にぎわい・交流海道ネットワーク」の4つの基本方針のうちの一つに「環日本海の交流の歴史や文化を活かす」があり、古代からの対岸諸国との交流、そして近世の北前航路による国内各地との交流など、環日本海の交流の歴史や文化資源を、歴史的港湾環境の整備などを通して活用、継承していくこととしています。
私は「日本海にぎわい・交流海道ネットワーク」の事務局を担当していますが、そんななかで、いろいろな「北前船」の史跡に触れる機会があり、それらを私が「にぎわい探検隊」隊長として皆様に今後紹介していきます。(にぎわい探検隊のメンバーは私、隊長Wと隊員Mの2名です。ただいま隊員募集中!!)
日本海側を中心として「人・モノ・金・情報」そして「文化」を運んでいた「北前船」が全国各地に残した足跡を探検し、また、その地で見つけた面白かった物・インパクトのあった物も一緒に報告していきます。(まじめなモノにはならないかも・・・)
いつまで続くかわかりませんが、よろしくお願いいたします。 2005.5.24 (by 隊長)